NPO法人「I Love 加賀ネット」は加賀の発展と心豊かなまちづくりの為に活動する団体です。
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「I Love加賀ネット」ブログ随時更新中です。

第85回 蕪村・月渓展を見る

●学術、文化、芸術、またはスポーツの振興を図る活動<当会定款より>

 

 

 おしろい花が濃い紫や白く咲き始めて、ほんのりと香りを漂わせている。秋の草花が

 咲き始め色彩が心を癒してくれるようです。

 今年の冬は暖冬の気象庁の予報です。秋が短めで、冬も雪よりも雨の日が多いという。

 エルニーニョ現象のようです。

 

 

トモエガモが絶滅危惧種と前回書きましたが、このところ新聞紙上で記事を拾い上げるとコウノトリ、トエガモ、雷鳥、ニッポンカワウソ、ウナギなど毎日とりあげております。

人ができる自然環境保護とは人工的破壊をしないこが基本であろうが、自然を守るという意識と根気のいる地道な努力と時間ではないでしょうか。

 

 

 俳画の美「蕪村・月渓」展を観に伊丹市・柿衞文庫にでかけました。

 秋季特別展 岡田柿衞没後30年で、記念講演会も開催されます。

                                      (別紙リーフレット参照)

 

 

すぐれた画家であり、俳諧の天才「蕪村」。その蕪村に学び、俳画で認められた月渓(のちに呉春)ユーモアと機知と英知は蕪村の俳句とともに一体化した創造力は、やはり人を魅了する。

平成15年に逸翁美術館・柿衞文庫「蕪村没後220年」を逸翁美術館で鑑賞した。

逸翁美術館は大阪府池田市(阪急グループ創始者 逸翁小林一三コレクション)にあります。池田の清酒「呉春」は月渓(後の「呉春」)の名前から取られたものです。

 

 

    

                     「台柿」                        【筆者・撮影】

 

 柿衞文庫の庭は、鮮やかでおおきなオレンジの柿をたわわに実り始めていた。

写真の柿は伊丹の酒「老松」の名水の横の小さな柿の木に大きく実った柿です。まだ青くオレンジ色に熟するにはそう時間がかかることはなさそうです。

説明によると「台柿」といって伊丹地方が原産。江戸時代に頼山陽が名付けた貴重な柿といてあった。

 

 

=蕪村・月渓展 =  伊丹市・柿衞文庫で9月22日から開催中です。

 

 

【柿衛文庫掲載許諾済】

 

 

 物事の一つを追っかけるのは楽しくもあるが、極めるまでにはいかない。

 この先をどのようにするかで、プロとアマの差がでてくるのではないかと思っている。

 

 

 

2012年9月28日

NPO法人  I  Love加賀ネット

事務局長 東川 敏夫

 

第84回 「絶滅危惧種トモエガモとラムサール条約登録」

自然環境の保全を図る活動 I  Love加賀ネット<当会定款より>

 

 

ヒンヤリとした弱い風が解放した窓から入ってくる。夏と秋の凌ぎあいがようやく始まり草花も色濃く鮮やかさを増して、秋の舞台に移り始めている。日中の残暑さ続いているが比叡山の麓では、流石に少しづつ黄ばみ始め、もう暫くすれば木々は色の風景になる。

蝉時雨も終り、鈴虫などの虫の声に秋を感じる。スカイブルーの秋の空や鰯雲、まさに日本の秋がそこまで来ている。

 

日本野鳥の会  http://www.wbsj.org/press/120907.html

  

トモエガモ  

 

トモエガモ

英名(Baikal Teal)   分類(カモ目 カモ科) Anas Formosa  全長約40㌢ 食べ物…植物の種や水草が好物、他に昆虫や貝を食べることもある。

    

雪の鴨池2011年02月03日(木)晴れ/鴨池 レンジャー日記より

…滅多に手前に来ないトモエガモが、観察館前のたんぼへ来たりもしました。周りのたんぼが雪に埋まってご飯が食べれずに、お腹がすいているのでしょうか。

            

【写真提供/日本野鳥の会  協力/加賀市片野鴨池観察館】

 

   *         *        *

 

鴨池観察館から「柴山潟」まで車で25分。冬になると片野・鴨池のトモエガモやコハクチョウ達は、餌を求め「柴山潟」と近くの田んぼに飛来します。 

潮津町にある中谷宇吉郎雪の科学館は「柴山潟~白山」の眺望を見る最高のポジションにあり、ここにやってくる鳥たちの遊泳姿を間近で見ることが出来ます。

 

                                

 

              

                        

                           

 

雪の科学館・コハクチョ・夕陽が沈む柴山潟 

                        撮影/潮津 保(北國写真連盟理事・潮津町在住)

     

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○プーチン露大統領、鶴と大空を舞う

プーチン露大統領が西シベリアでモーター付きのハングライダーに乗り、人工飼育された希少種の鶴と一緒に飛んだ。ノーボスチ通信が伝えている。鶴は絶滅が危惧されているソデググロヅル。西シベリアでは30年前から鶴の保護活動が行われている。(朝日新聞デジタル記事より)

 ・         ・         ・

  トモエガモの飛行経路 初確認(NHKニュース)

  トモエガモ北帰行のルート解明 (読売新聞)

  絶滅危惧種 トモエガモ 渡りルート解明 (北國新聞)

 

加賀市と日本野鳥の会は、同市のラムサール条約登録湿地・片野鴨池で越冬するトモエガモの渡りルートを始めて解明したと発表した。

絶滅危惧種に指定されている渡り鳥「トモエガモ」が日本で越冬した後、繁殖のために中国東部を経由して北極圏に到達するまでの飛行ルートが、日本野鳥の会、加賀市の調査で、初めて確認されました。

ロシア極東部で繁殖し、日本や韓国などで冬を越しますが、詳しい飛行ルートが解明されていなかったが、日本野鳥の会などが今年1月から飛行ルートの調査をはじめました。

調査では、トモエガモの国内最大の越冬地である石川県加賀市が捕獲した4羽に小型発信機を付け人工衛星を使って追跡、このうち2羽の雄の追跡に成功したということです。

2羽はいずれも日本を飛び立ったあと、中国とロシアの国境、アムール川流域を経由して、2ケ月から3月ケ月で北極圏まで飛行していました。飛行距離4000キロ、北極圏に3カ月近くとどまっていることから、その周辺が繁殖地となっている可能性が高いとみています。(NHKニュースより)

 

■日本野鳥の会・加賀市片野鴨池観察館  http://park15.wakwak.com/~kamoike/

 

○加賀市役所で会見した寺前秀一市長は

「ラムサール条約の登録湿地を拡大し、柴山潟周辺も含める運動の弾みになる。国際交流のきっかけにしたい」片野鴨池から北東約10㌔の柴山潟周辺の田んぼを餌場としていることが解明されており、地域の環境保全活動の広がりが期待されている。日中の休み場としての片野鴨池と餌場としての柴山潟は密接な関係にあり、柴山潟もラムサール条約登録の実現に向けて支援を惜しんではいけないと考えています。

 

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○【ラムサール条約】とは

 

湿地のもつ経済上、文化上、科学上の価値を認識するだけではなく、動植物、特に水鳥の生息地として確保すべくつくられた国際条約。正式名称「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」という。 

水辺、湿地Wetlands(湿地、沼沢地、干潟、水域など様々なタイプの水辺の環境)は、ともすれば安価に開発できる場所として、経済活動の犠牲にされ失わされることが多い。また、湿地や浅い水辺は周辺には人が住むことが多く、水の汚染があり、そこに生息する鳥類は減少し続け、特に体の大きいものはその傾向が顕著である。1971年2月2日にこの条約が作成された。(小学館「日本大百科全書」抜粋)

 

環境省が絶滅の恐れがある野生動物のリスト「レッドリスト」にニッポンウナギを指定する方向とニュースになりました。今回は絶滅危惧種トモエガモをとりあげましたが、自然環境の変化や、特に捕獲や人工的自然環境破壊による動植物の生態の変化によることが大きい。

片野鴨池観察館・チーフレンジャー岡本さんは「調査の結果、集中して守るべき場所が分かったことが大きい、住民に貴重なトモエガモが近くに来ていることを知ってもらい、地域の宝として守る動きに繋がれば」と。

 

      当、I Love加賀ネットは、こうした恵まれた自然環境を守る強い意志と、

      行動をもつことから始めなければならないのではないでしょうか。

 

 

【加賀市片野鴨池観察館】     撮影/筆者 2012.05.12

 

 

2012年9月14日

NPO法人  I  Love加賀ネット

事務局長 東川 敏夫

 

 

第83回 黄檗山萬福寺その(3)

学術、文化、芸術、またはスポーツの振興を図る活動<定款より>

 

 

産経新聞9月7日付大阪夕刊紙面に黄檗山萬福寺の記事が取り上げられておりました。

 

黄檗宗ゆかりの僧で絵を描いた鶴亭(1722~1785)のこと、江戸絵画の大家、伊藤若冲(1716~1800)中国由来の絵画表現と江戸絵画の接点となった鶴亭。不明点が多いがその生涯に興味が尽きない。  (文 坂下芳樹 産経新聞記事より要訳)

 

 

五木寛之著 「百寺巡礼 京都 萬福寺」より

文化人が集った「黄檗サロン」の頁でも南画で知られる池大雅や伊藤若冲、若冲と親しかった相国寺の大典は、賣茶翁で知られる黄檗僧の月海元昭と親しかった。

賣茶翁は、当時の文化人の中ではユニークで肥前国の黄檗宗龍津寺の住職に就いていたが、その地位を捨てて京都にでてからは、煎茶道具をもって花や紅葉の名所に行き煎茶を打った風流人だった。詩人・書家としても高遊外の名で抜きんでた存在として知られている。

 

まさに黄檗サロンで、南画の池大雅は蕪村と親しく交流がある。繋がっているんですね。

 

         

賣茶堂   社団法人全日本煎茶道連盟本部が置かれている。

                       

           

  茶具塚

 

 煎茶と普茶料理(普く多勢の人にお茶を差し上げるという意味で、行事や打ち合わせの時に、茶礼という儀式を行い、出される中国風精進料理を普茶という。)

 

 

            天王殿                       布袋像

 

日本では七福神のひとりだが、黄檗宗では布袋は九世紀の高僧の名で弥勒菩薩の化身とされているのだそうです。

 

 

  

 

棒で打ち、行事や儀式の時を告げる飯ぽう。木魚の元とされている。まだまだ、ご紹介したいことが多くありますが、まとめに入らなければなりません。

機会があればご紹介いたします。

 

 *     *     *

 

鉄眼版一切経版木は明朝体と原稿用紙のルーツ

拝観しようとした日は日曜日で、休館となっていた。たまたま、筆者と同年代の近所の方が「最近は、サラリーマン化して日曜日は休館にしているようですわ」と。絶句する羽目になる。「めっきりと観光客も減りまして、昔は修学旅行のコースなっていて、宇治平等院から、萬福寺、宝蔵院(鉄眼会館)のコースで賑わっていましたが、今は少なァ―なりましたわ。」「そういえば普茶料理も当日でも受け付けているようですよ。」五木寛之著の萬福寺編が刊行された2005年当時と個人も団体も大きく変化してしまいました。萬福寺のみならず、夏場であったせいかもしれませんが、どこを訪れた時でも観光客は少ないと感じていました。秋の観光シーズンともなるとガラッと様相が変化するであろうと思っている。

 

萬福寺で隠元禅師に師事した黄檗僧鉄眼は一切経(経蔵・律蔵・論蔵の三蔵と注釈書を含む仏教聖典の総称)6959巻を隠元禅師が日本にもってきたのを機に版木を新たに作り印刷する一大事業を人々の喜捨だけで実現した。発願から苦節12年6万枚に及ぶ版木が完成し、今日も収蔵庫に収められている。版木は、一頁20字詰の10行。見開きで20行になり、現在の原稿用紙の元になっている。また、この版木の書体は、中国の明の版を底本として作られたため、その書体を、明朝体とよんで今日の新聞活字や書籍そして、パソコンでも使われている。また、版木は吉野桜を使用している。

 

 *     *     *

 

NPO法人I Love加賀ネット「柴山潟桜周回廊プロジェクト」の企画立案の時に、鉄眼禅師の事に触れ、企画書に書いておりますが、様々な困難を克服して、一大事業をやり遂げる信念がなければなりません。共通の思いや将来に託して行ける夢を抱きながら「柴山潟桜周回廊プロジェクト」を完遂したいと思っております。

 

既に62歳の高齢だった隠元禅師が日本に渡来することの強い想いや、日本にカルチャーショックを与え、様々な文化に大きく影響を与えた隠元禅師と黄檗山萬福寺は、今日も私たちの日常生活の中に溶け込んで生き続けている。

 

 

2012年9月11日

NPO法人  I  Love加賀ネット

事務局長 東川 敏夫

 

第83回 「隠元禅師・黄檗山萬福寺」続き(2)

  学術、文化、芸術、またはスポーツの振興を図る活動<定款>

 

 

「隠元禅師と上方落語」

 

1654年中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の尊崇を得て、1661年(寛文元年)開創された黄檗宗の大本山です。

隠元禅師は、伽藍建築・文化、美術、印刷、煎茶、普茶料理、隠元豆、西瓜、蓮根、孟竹(タケノコ)・木魚など当時の江戸時代の文化に大きな影響をもたらしました。

隠元禅師が江戸文化のみならず、今日においても日常の生活の中に溶け込んでいることが数多くあることに気がつきます。文化や美術、印刷に煎茶など一つ一つが形成されて行く過程に歴史の面白さや重みがあります。(前回述べました。)

 

「山門を出れば日本ぞ茶摘み唄」 菊舎尼

 

菊舎尼は江戸後期の女流俳人で、寛政二年(1790年)宇治・萬福寺を訪れた時の俳句です。

 

           

 

山門は三門が正しい「三解脱門」を意味する門であるから。(五木寛之著「百寺巡礼」第九巻 京都Ⅱ 萬福寺より)

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」第九巻 京都Ⅱ 萬福寺

 

茶所・宇治に立つ“中国の寺”中国式煎茶文化も隠元禅師が伝えたものだと云われている。

現在、宇治が美味しい御茶の産地として有名なのも、中国から伝来したそうした禅宗の文化が背景にあるのかもしれない。(中略)

最初に目に入ったのは朱塗りの総門である。「第一義」という額がかかり、屋根の一番上には左右に二体、想像上の動物だという摩伽羅が見える。魚類のようであるが、脚で体を支える不思議な動物だ。この門を見た瞬間に、これは日本の寺ではない、と思わずにはいられない。

 

                       

「総門」屋根の一番上左右二体「摩伽羅」                    「第一義」

 

「隠元が日本に与えたカルチャーショック」と五木寛之さんは書かれています。

 上述のように、隠元禅師は隠元豆、普茶料理、煎茶、孟宗竹など様々なものが、禅師とともに渡来した。この稿では黄檗山萬福寺の入り口部分にしか入っていないが、それだけで当時の日本に大きな影響を与えたことのであろうと推察することができます。

 

 

「隠元禅師と上方落語」が今回のテーマであります。

 

上方落語は、江戸時代中期に、京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」や「軽口」が落語の起源となったと云われている。

神社の境内など屋外で活動を続けていた上方落語、やがて当時の文化人が中心となって座敷で一般から新作の小噺を募集して披露する素人噺の会が流行しました。安永元年(1774年)から天明末年(1789年)多くの小噺本が発行されました。その後、寛政六年(1794年)初代桂文治が登場します。桂文治は大阪の坐摩神社の境内に小屋を立て、そこで連日落語を演じるようになります。それが大阪の寄席の始まりと云われています。(落語作家・小佐田定雄より)

「落語」の始まりは文化・文政年代(1808年~)、元和・寛永年代(1616年~)に始まった「小噺」は、遡ること150年前であり、落語の基礎になったと考えられる。では、隠元禅師と上方落語の関係を述べなくてはならない。中国笑話が日本笑話に与えた影響として

京都・鎌倉五山僧徒は中国に渡航することが頻繁であったことからもその間に中国笑話が輸入されたことは間違いないところである。

 

 

中国笑話と日本笑話

 

中国笑話(漢文笑話)は京都・大阪を中心に流行した。儒者 岡 白駒(おかはっく1692~1767年)等の白話文学者の堪能な小説家によって開拓されていった。中国笑話の翻訳が日本笑話へ移行していく。「戯言養気集」「昨日は今日の物語」「醒睡笑」は慶長、元和の頃である。「竹取物語」「宇治拾遺物語」に収まられた説話などの関連が源流と思われる。 (「中国人の笑いと文学」筆者卒論より)

京都で露の五郎兵衛が四条河原町で活躍し始め、後水尾上皇の皇女の御前で落語を演じたこともあったという。大阪では米沢彦八で、「寿限無」の基となる話を作ったのが初代米沢彦八であると云われている。こうした流れは「江戸小噺」「江戸落語」に発展して行くのは当然のことであった。

隠元禅師が渡来した折に、中国文化(書籍、書画、陶器等)を輸入した。謂わば当時の最先端ブランドと言っていいものであり、そうした中に小噺の原形となる中国笑話もあったことは推察出来ると思っています。印刷(一切経「鉄眼禅師の版木」の稿で述べる)など

日本の印刷技術を飛躍的なものにしたことを考えれば、当然のように思われる。

 

昭和の戦後、上方落語の復興に尽力されたのは桂米朝師匠であります。そして、米朝師匠は筆者の大学の大先輩でもあります。

 

      

    隠元禅師が伝えた「隠元豆」               孟宗竹(タケノコ)

 

          

                            

 

 

 

2012年9月7日

NPO法人  I  Love加賀ネット

事務局長 東川 敏夫

 

第83回 「隠元禅師・黄檗山萬福寺」

学術、文化、芸術、またはスポーツの振興を図る活動<当会定款>

 

 

  1654年中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公

  の尊崇を得て、1661年(寛文元年)開創された黄檗宗の大本山です。

 

黄檗宗では、儀式作法は明代に制定された仏教儀礼で行われ、黄檗唐韻で発音し、中国明代そのままの方式梵唄を継承しています。建造物は中国明朝様式を取り入れた伽藍配置で、創建当初のまま禅宗伽藍建築で、国の重要文化財に指定されています。

隠元禅師(隠元隆琦)中国明朝時代の臨済宗を代表する僧で、中国福建省にある黄檗山萬福寺の住職をされていました。当時、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴い1654年に来朝され、宇治の地に中国に自坊と同じ「黄檗山萬福寺」と名付けました。

       

                                                   

  

黄檗山萬福寺三門

 

 

 

 

 

隠元禅師像

 

 

大雄宝殿 

 

  隠元禅師は、伽藍建築・文化、美術、印刷、煎茶、普茶料理、隠元豆、西瓜、蓮根、

孟竹(タケノコ)・木魚など当時の江戸時代の文化に大きな影響をもたらしました。

   「黄檗宗萬福寺」と「隠元禅師」については概略お解りいただけたかと思います。

 

隠元禅師が江戸文化のみならず、今日においても日常の生活の中に溶け込んでいることが数多くあることに気がつきます。文化や美術、印刷に煎茶など一つ一つが形成されて行く過程に歴史の面白さや重みがあります。何回かに亘って取り上げていきたいと思っております。 

 

 

徳川四代将軍家綱と隠元禅師と後水尾上皇

 

比叡山の麓に自然環境を取り入れた日本庭園「修学院離宮」と中国明時代の伽藍建築物「黄檗山萬福寺」がほぼ同時期に創建されたところに歴史の意義を見出すことができる。

 

徳川四代将軍家綱と隠元禅師と後水尾上皇

当コラムNO.81回(1)と(2)で修学院離宮を取り上げましたが、修学院離宮は後水尾上皇が徳川四代将軍家綱(徳川幕府)時代の1655年から1659年に造営されました。

1661年、黄檗山萬福寺は後水尾上皇や徳川幕府の崇敬を得て宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り禅寺を創建した。一つの建造物を見ると見落としてしまう、家綱と後水尾上皇、そして隠元禅師の繋がりがあることや、当時、由井正雪の乱、江戸大火などがあったものの江戸幕府として60年が経過し、安定感がでてきた時代だったのではないだろうか。

比叡山の麓に自然環境を取り入れた日本庭園「修学院離宮」と京都・宇治に中国明時代の伽藍建築物「黄檗山萬福寺」がほぼ同時期に創建されたところに歴史の意義を見出すことができる。

そして、繋がる要に徳川四代将軍家綱がおり、その存在感が今大きなものとして感じられる。

 【次回は隠元禅師と上方落語】

 

   

 

修学院離宮 「船着き場」「霞棚」

 

                         ~次回は隠元禅師と上方落語~

 

 

 

 

2012年9月4日

NPO法人  I  Love加賀ネット

事務局長 東川 敏夫

 

 




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