NPO法人「I Love 加賀ネット」は加賀の発展と心豊かなまちづくりの為に活動する団体です。
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第99回 50年も経つと

 学術、文化、芸術、またはスポーツの振興を図る活動<定款より>

 

 

     一年が瞬時のように過ぎ去り、歳月は繰り返される。

     昨年11月西洋ダリアを掲載したが、今年は数も増え高くそびえて開花しました。

 

                        

 

 【西洋ダリア(コウテイダリア) 筆者撮影】

 

    

 

 

都市部の高齢化と過疎化

 1963年の100歳以上は153人、現在51376人、人口に65歳以上が占める割合は6%から23%に。3000万人を突破した。30年後の2042年(平成54年)に3878万人でピークを迎えるまで高齢者数は増え続ける。(人口問題研究所調べ)

高度経済成長時代に地方から東京、神奈川、千葉、埼玉の1都3県に大量に移り住んだ(東京圏)。国土交通省の首都圏白書が2005年から2035年にかけての高齢化の伸びを予想しているが、全国平均45.1%に対し東京は77.0%、関西圏、名古屋圏は50%となっている。

 

東京郊外がゴーストタウン化して、街は高齢者化しているのが現状であろう。

 

 

大阪千里ニュータウンも50年

大阪も同様で、千里ニュータウンは昭和37年に高度経済成長に伴い住宅不足から開発され昭和50年のピーク時まで右肩上がりに増加し、13万人まで増えたが、その後減少傾向となり、平成23年に増加傾向に転じて、現在90266人にまでなっている。

街開きから50年が経ち、住民の高齢化や建築物の老朽化が進み、建替えなどの課題がクローズアップされてきている。平成16年頃から公営住宅の建て替えが本格化し始めているものの、高齢化した住民の分譲住居の建替えは心情的にも難しい問題があるように思われる。

 

国土交通省、マンション建替えは、集会で住民(区分所有者・建替え合意者)3/4以上の合意とその合意者の議決権3/4以上の賛成がなければ議決されない。中古マンションで25年、新築マンションで30年を目安として大規模修繕工事を実施しなければならない。千里ニュータウンは50年になることを勘案するならば、既に2回の大規模修繕工事をしたことになる。高齢化する住民に建替えは大きな負担になり、積極的に手を挙げるのは難しそうだ。

 

 

 

 

30歳代に住んでいた兵庫県のマンションは40年になり、当時の分譲価格が600万円位だったと思うが、現在の価格は340万円で売りに出されている。新興住宅地として人気があった街並みも寂れてしまい、小学校や中学校の統廃合も進み、住民の過疎化が進行していることを窺い知ることができる。首都圏(関東圏)のみならず関西圏でも同様に深刻な問題であることに間違いはない。

 

経済中心の高度成長時代に猛烈に生きてきた団塊の世代の人達にとって、

              更に受難の時がきているように思われます。 

 

 

              芭蕉去て そののちいまだ 年くれず  蕪村

 

 

 

2012年11月30日

NPO法人  I  Love加賀ネット

事務局長 東川 敏夫

 

第98回 中高年が夢を語り、若者の夢を支える町へ

自然環境の保全を図る活動 : I Love加賀ネット

 

 

   

      黒木 克史

 

 

今、「遅咲きのひまわり」というテレビドラマが放映されていて気に入って観ている。

高知県の四万十川が流れる地域を舞台とする男女7人の青春ドラマで、物語は生田斗真さん演じる主人公の一人が東京から少子高齢化が進んでいそうな四万十に引っ越し、「地域おこし協力隊」として役場に就職するところから始まる。

 

今の時代を反映し、先が見えてややあきらめの気持ちで生きる、不安定なそれぞれの若者たちを描きながらも、さわやかな、感じのいいドラマである。毎回、四万十の美しい川や山、まさに田舎の原風景の映像があり、それだけでも癒される。

 

 

  

                     四万十川・岩間沈下橋    【写真提供:四万十市役所】

 

 

ドラマの中で少し気になるところがあった。登場人物の若者たちはこのドラマの中で、都会と同じように最先端のスマートフォンを使って連絡をとりあっているではないか。当然パソコンでメールもチェックする。一瞬、大自然の映像とのギャップに違和感を覚えたが、考えると四万十は有名な観光地なので当然である。

 

自然の豊かさでいえば石川県も高知県に負けていないが、ご多分に漏れず少子高齢化が進んできた。人がきちんと「手入れ」をして綺麗な景観を維持していこうという「能登の里山里海の再生」の取り組みがある。自然を観光資源とする能登においても若者にとって魅力ある町にするには、豊かな自然だけではなくある程度の便利さは必要であろう。

 

 また、加賀に於いては「柴山潟~白山」の美しさは誇れるところ。片野・鴨池に飛来する渡り鳥が、柴山潟周辺の田んぼで餌を求める姿はテレビや新聞でも良く見る風景である。ラムサール条約に認定されている片野・鴨池湿地帯と並んで、柴山潟も2年後のラムサール条約認定を目指していると聞く。

 

 

         

     白米千枚田(輪島市)             柴山潟のコハクチョウ(加賀市)

【写真提供:金沢観光情報(きまっし金沢)】    【写真:潮津 保(北國写真連盟理事)

 HP きまっし金沢http://kimassi.net

 

 

*          *          *

 

 

今夏(平成24年7月)白山登山と御池めぐりをした。森林限界を超えると癒しの別世界が拡がり、自然に対する畏敬の念と、人が自然の一部であることを思い出させてくれる。
豊かな自然が近くに多くあることが、石川県の最大の魅力である。

 

 

  

白山より加賀市方面を望む。     白山御池めぐり         クロユリ

  雲海の下でした。     

    

 

               

                      御来光(白山山頂より)

 

 

*          *          *

 

 

魅力ある町はインフラも大事だが、中高年が元気であることも大事な要素である。

 

カード会社VISAのCMで、「将来の夢は?」と娘に聞く父親が、「お父さんの将来の夢は?」と逆に聞かれ、「パパはもう…。」と当惑するというのがあった。私なら「お父さんの夢は君が無事育つことなのだよ。」とキザに答えるところだが…。しかし、もし私が自分の父や母に同じ「将来の夢は?」と質問をしたら、自分自身のやりたいこと、やりのこしたことを私に語ってほしいと願う。  

 

~娘に対する答えはもう一度、考え直すことにしよう~

 

 

 

 

ナナです。よくコンピューターのキーボードの上を歩いたりしてジャマをします (でも、可愛いネコです)。

 

 

2012年11月23日

くろき動物病院

院長 黒木 克史

(加賀市作見町)

 

第97回 故郷で過ごした少年期の想い出

つなげる―「柴山潟桜周回廊プロジェクト」―つながる

 

 

                         

                                        西村忠治(昭和12年生れ)  

 

加賀市史によると中世から近世は潟山津と地名にあります、名のとおり潟あり山あり海ありの自然の恵みをうけている郷里の景色は心の故郷です、私は篠原町の農家で生れ育ちました、篠原神社の裏は小高い丘でそこは「はさば」と云って刈り取った稲束を天日干しにするため棚にかける全、集落が利用する「はさば」でした、その台地から眺める霊峰白山・鏡のように澄んだ柴山潟・新保の山・温泉街と背後の山を望む美しい眺めは私の心の財産です。故郷で過ごした少年期の想い出を綴ってみます

  

篠原神社

【写真提供 :NPO法人 おったから塾 (加賀市篠原町)=撮影2012.11.11=】

 

*                 *                *

 

 

宮地~小塩辻の畑から「白山」を仰ぐ

 

<遊び>

農家の子供の遊びといっても、海山川の自然の恵みの収穫でした。春はタケノコ採りよもぎ採り、夏のお昼休み大人たちは昼寝、炎天下子供たちは篠原海岸の海へ岸から30m位沖に出ると2m位の深さに岩場があり「岩かき」「もづく」を採るのです、家に持ち帰ると母親が近所に配っていましたその人達から「かていもんじゃ」とお礼を云われると嬉しかった。秋になると海岸の松林にキノコを採りにマツミミ・シュロがとれた特に夜雨が降った翌朝早くは竹で編んだ籠一杯採れた、野生の山芋も採れたが芋が折れないように地中深く堀るのが大変でした。

 

宮地町から山田町の間は原野であったがマッタケが採れると聞いて友達と採りにいったが雑木林で発見出来ずしかも漆にかぶれて顔と両腕が水脹れで痒くてたまらんお岩のようになり、母親が粟津の温泉が効くと云われ連れてってくれたが治るどころか腫上った患部が化膿して往生しました。         

川に行ってドジョウ・小さな川エビ・たんぼでタニシがよく採れた。     

冬は一面雪化粧の中に一筋の川があり両岸に生える真っ青なセリ。     

これら採れたものは直ぐ食卓に並ぶ、ある時はキノコごはんだったりかきの酢の物だったりタケノコごはん煮物だったり美味しかったし採ってきたことを母親から褒めてくれるのがとても嬉しかった。

        

<お手伝い>

私の実家は農家でそこそこの田畑があり父親は6歳の時に他界し母親は嫁いだ姉2人を除く6人を育てる環境で一家総出の農作業の毎日でした、お金は無かったようですが食べる量には不足は無かった、勿論私の仕事も役割りがあり、同級生は部活動で活躍して楽しそうでしたが私は授業が終わると直ぐ家に帰りお手伝いをしました、これは普通の農家の子供は皆そうでした働きました。

 

当時の農作業は今日のように耕運機やコンバインなどなし、農耕牛が貴重な動力源でした、私は牛の餌係り、真っ青なススキが愛牛の大好物で草刈が僕の仕事、青草の無い秋冬は稲草を10cm位に刻んで米ぬかと水とを桶に入れて掻き混ぜるこれが牛のごはん、その藁を刻む器具の刃で自分の左手をケガし今も親指と人指し指に傷跡が3ケ所残っていて時々そのキズを見て家族のような愛牛を思い出します。

 

 

【図説】かたやまづの歴史より 

 

当時の最高のおもてなしはお餅をついてご馳走する、東京京都から親戚の方が里帰りすると、つきたてのアンコロ餅おろし餅キナコ餅を振る舞い近所にいる親戚も集まり都会のみやげ話で宴は盛り上がる、客にお土産をあげるのも餅です、夏の餅を酸化防止に先人の智恵で「くま笹」で包む、このくま笹を採りに篠原の海岸に笹藪があり、何十枚が採っているうちに蜂の巣にきずいた時は遅く蜂の大群にさされ痛い目にあい一晩中眠れなかった、されどお土産の笹餅を沢山持って帰京される客を見送ることができた。

 

 

 

宮地町と小塩辻の間に大野と云う篠原の畑があり秋小麦を蒔き春採り入れそのあと芋を植え秋に収穫です、この畑はよく「マムシ」がでるところで僕も芋掘りの手伝い中に3m先位に発見、大人達は逃げ出したがさほど怖さを知らない少年はしばし「まむし」とにらめっこ、今から考えると怖い経験でした、農家の軒下にまむしの皮を剥がして干してありました、我が家でも干物になったマムシを粉にしてキナ紛とかトロロ昆布に混ぜてふりかけにして食べた、滋養強壮・薬にもなると貴重な食材だったようです。 

 

篠原の母親達は働き者で、自作の農野菜を荷車に乗せて大聖寺の消費地に売りにいきました今の地産地消ですか、篠原から大聖寺まで約4キロ途中の高尾町に急勾配の坂があり、荷車を引き上げるのが大変そこで母親の引く荷車の後押しをするのが僕の役目、眠い早朝5時ごろ起こされ帰りの為自転車をひいて高尾の坂を後押しします、坂の上までくれば僕の手伝いは終わりですが、近所の母親達が辛そうな息をしながら坂道を登っているので僕が後押しをします、又後方に大息をしてる荷車があり坂の上まで後押し、これでは朝食をとって通学の朝礼に間にあわない、されど後日その母親達から「あんがと」と感謝されたり、何回も繰り返すと僕のことを「かていもんや・えらい子や」と評判になって嬉しかった。

 

秋みぞれか氷雨か降る時の手伝いはきつかった、秋の作物はネギとニンジン大根ごぼうが主で白菜ですが、根菜は綺麗に洗わなくては売り物にならない、掘って採ったニンジン大根ごぼうをせせらぎの川で洗う、寒さの中でなお水が冷たい手は痛いほど冷えてかじかみ体は氷のように冷たく硬直して子供心に泣きたいくらいだが母親が一生懸命流れる冷たい水でごしごし洗っている姿をみるとグチをこぼしたり泣き言は言えず、必至に我慢して早く家に帰れるように仕事を進め、家の暖炉を待った。

 

今の調理は電化又はガスで栓をひねればよし、当時は風呂もかまども「いろり」の暖炉も「蒔き」と「コッサ」でした、冬支度は燃料の備畜が最も重要、篠原から新村伊切町にかけて防砂林で松林でした、その枯れ枝を取って蒔きに蓄える、松の葉の落ち葉を「コッサ」と云った、コッサは囲炉裏で燃やし暖房兼湯沸し燃料として貴重であったので、紅葉の時期は子供たちは一斉に「コッサ掻き」に出、荷車一杯に積んで持ち帰り、何日も繰り返して蓄え激寒に備えた。

 

                                                                     

                   *        *        *

 

<現在の棲家は故郷に類似>

私はS31年上京して大手鉄道会社が経営する百貨店に入社以来40数年間流通業に携わりS50年東京近郊我孫子市に住んでおります、我孫子市は手賀沼の湖面が輝き利根川が穀倉を豊かにし沼の周りは緑の山に囲まれた首都圏の住宅地です、我が家の台地から望む手賀沼の景色は故郷柴山潟周辺の景色と似ています、片山津も我孫子も優しい自然環境がとても良い、当我孫子は「北の鎌倉」と云われた。上野から40分の等距離で、文化人実業家達の別荘地として知れるようになり発展した、明治後期から大正時代は嘉納治五郎(柔道・教育家)志賀直哉、武者小路実篤などの文人、杉村楚人冠、柳宗悦など著名な評論家など多くの方々が別荘もしくは住いとしていた。

 

嘉納治五郎の甥で柳宗悦(美術評論家)が我孫子の嘉納の別荘の前に三樹荘と云う家を構えて白樺派の文人達との交流の場になっていました、T10年柳は京都に引っ越したあと当時最高裁長官の田中耕太郎がすみ、その後S4年郷土の偉人深田久弥が妻北畠八穂(詩人作家)と結婚して2人の生活が始まったのがこの我孫子の三樹荘なんです。余談ですが私は現在我孫子市のボランテイアガイドをしてます。風光明媚な平和で美しく、著名人が癒しの街として愛して過ごしたその歴史を訪れた人に知って貰いたいと活動しています。、.久弥の我孫子時代は作家としてまだ無名ではあったが白樺派の志賀直哉や武者小路や滝井孝作など同人達とは親交があったようです。その影響かどうか後の「百名山」を50回の発表で大成され作家として高い評価をうけた。

 

                                           

       深田久弥「山の文化館」大イチョウ            深田 久弥      

【写真提供:深田久弥 山の文化館(加賀市大聖寺)】

 

 

<むすび>

古里をあとにして55年余りですが少年の頃の思い出は強いですね、故郷を離れた人は特に感じます、それだけ育った町を誇りに思い自慢にも思い愛した心に残る故郷は尊い!!

 

故郷ありがとう!!

 

そして故郷在住の学友達と僕を育ててくれた篠原の方々に感謝して筆をおきます。

 

 

  

   

      篠原古戦場・首洗池            国の天然記念物・金明竹(篠原町)

 

  

 

2012年11月19日

西村 忠治

(加賀市篠原町出身・千葉県我孫子市在住)

 

 

 

 

第96回 「仮名手本忠臣蔵」

学術、文化、芸術、またはスポーツの振興を図る活動<定款より>

 

 

「仮名手本忠臣蔵」

 

国立文楽劇場で(11月3日~25日)「仮名手本忠臣蔵」が公演されている。ご存じの通り元禄赤穂事件(1701年~1703年)四十七年目の寛延元年(1748年)に大阪竹本座(竹本義太夫)で人形浄瑠璃として初演されたのが「仮名手本忠臣蔵」です。

赤穂浪士の仇討を題材とした文楽屈指の人気作です。太夫、三味線、人形遣いが三業一体となって繰り広げる忠義と情のドラマ。初日は大入り満員だったようです。

 

  ●国立文楽劇場「仮名手本忠臣蔵」 開催期間 11月3日~25日

                      【転載厳禁】 当会ホームページ掲載については許諾済

 

文楽と橋下大阪市長との補助金に関してのやり取りがありましたが、300余年にわたり続いた芸術、古典文化、歴史を保存維持していくことは重要ではないでしょうか。

ではありますが、文楽を維持していく為の自助努力をも協会はしていかなければならないとも感じています。落語、漫才、浪花節、講談など芸のプロ集団においてはその発信力がなければならないと思っています。集客のための努力は欠かせない。

 

国立文楽劇場 http://www.ntj.jac.go.jp/bunraku.html

 

*          *          * 

 

近松門左衛門とお初天神と福井県鯖江市

人形浄瑠璃といえば近松門左衛門作「曽根崎心中」「心中天網島」であろう。福井県鯖江市内に「近松門左衛門」里や像が建立されています。

 

        

 

「曽根崎心中」

大阪内本町の平野屋(醤油屋)手代徳兵衛は北新地の天満屋の遊女お初と愛し合う仲。

しかし、徳兵衛に大きな期待を寄せている親方(徳兵衛の叔父)ゆくゆくは店を継がせ姪と結婚するように迫る親方。お初と一緒になりたくて縁談を断った。親方は激怒し、店はクビ持参金を返せと迫る。友人の油屋九平次はとんだ悪党で「借りた覚えはない」の一点張り。挙句に貸し借りの証文を、徳兵衛が偽造したと因縁をつけ、道端で数人に殴打される。

親方に持参金を返せない、公衆の面前で殴られ男の面子も立たない。かくなる上は、死んで無実を晴らそと、お初と共に曽根崎の森に入っていく。お初は嬉しかった。大好きな徳兵衛と一緒に死ねることが幸せでならない。なかなか刺せない徳兵衛に「早く殺して」とせがむお初。二人は一つの帯で身体が離れないように結び、お初を刺し、徳兵衛も自らの首をさした。 近松門左衛門作「曽根崎心中」あらすじである。

竹本座・竹本義太夫と近松門左衛門が継承する文楽そのものである。

11月22日は近松忌、巣林子忌(巣林忌)と呼ばれ、冬の季語です。

 

大阪市北区曽根崎にお初天神(露天神社)としてヒロイン「お初」の名前からお初天神として親しまれている。

 

 

お初天神

 

  

 お初と徳兵衛の石標

 

 

 お初と徳兵衛

 【お初天神写真/筆者撮影】

 

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赤穂浪士大高源吾と俳句

赤穂浪士四十七士の一人、大高忠雄(源吾)の俳号は子葉と云い、宝井其角と交流があった。打ち入り前夜、煤払竹売りに変装し、吉良邸を探索していた源吾が両国橋のたもとで其角に出会い「西国の就職が決まった」と別れの挨拶をした源吾に

其角「年の瀬や水の流れと人の身は」と、はなむけとして詠んだ。

これに対して、源吾は「明日待たるるこの宝船」と返し、仇討をほのめかしたという。

明治になって、この逸話を主題とした歌舞伎「松浦の太鼓」が作られたという。

切腹の座につき「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」の一句を遺した。

 

原田神社と大高源吾

     【写真提供 山口高正氏】

 

「裏枯れや 餅にとどまる さくら塚」 

原田神社の辺りを桜塚といい、桜塚古墳のある場所です。桜の葉が枯れているが、桜餅として使われているではないかと。裏枯れのは、忠義と人情の世界に生きることもこれもまた人生ではないかと。(解釈している。)

 

 

2012年11月11日

NPO法人  I  Love加賀ネット

事務局長 東川 敏夫

 

第95回 片山津の想い出 その4

 

 

 これまで書きとめた片山津の想い出(1)、(2)、(3)では、主に春、夏、秋の情景を

 描写してきました。今回は「思い出」の最終回として、冬にちなんだことを書きつづっ

 てみます。

 

 

     藤井 忠邦

 

厳しかった冬

北陸を含めた北国の冬は、地球温暖化によって暖冬気味の今日でも厳しい季節に違いなのですが、半世紀前までは平地でさえ途方もない大雪にみまわれて、人や車の往き来がままならない時期がずいぶんとあったように思います。

当時は、今のような融雪装置や除雪車がない時代ですから、すべて人力での除雪に頼るしかありませんでした。雪が降れば、どの家も一家総出で雪かきをしたものです。小学生でも高学年になればスコップを握るのは当たり前でした。

 

ある年の大晦日の夜のことを思い出します。

 

夕方から降り始めた雪が夜には激しさをまして、一年のアカを落としに片山津温泉の総湯に出かける頃には、「これは大変だな」と思わせる降り方でした。

小一時間ほどで総湯を出て家に戻るのですが、自身の股に、積もった雪のかさがつかえて思うように前へ進めないのです。やっとの思いで帰宅してから、「これは恐ろしいことになるな」と感じたものです。

 

 昭和31年 (1956) 1月撮影<温泉内の民家の玄関>

 

案の定、翌朝起きてみると、窓や玄関のガラス越に雪の山がそびえているではありませんか。もともと根雪があったのでしょうが、その上に新雪が降り重なり、2m近くの高さに達していたようです。玄関の出入りができない状態ですから、元旦から除雪に汗を流したのは言うまでもありません。

我が家は平屋で二階がなかったのですが、温泉の町中では除雪しようにも雪捨て場がなく、しばらくの間、二階から出入りしていた家もあったようです。道路は人の往来で踏み固められ、さらに降り続く雪でかさ上げされて、二階を歩いているようでした。そのため、垂れ下がった電線に手が届くほどで、感電に注意するように言われた記憶があります。

 

三八豪雪

過去に経験した何回かの大雪の中でも最大といえるのは、やはり昭和38年の三八豪雪です。その前年の昭和37年9月、私は大阪の親戚が経営する金属加工会社に6か月間の住込みの見習い職工として引き受けてもらいました。昭和38年4月からの就職にそなえて、少しでも実社会の経験を積んでおきたかったからです。

訓練先の大阪では晴天が続いているのに、北陸方面では37年12月下旬から冬型の気圧配置となり、断続的に降り続けていた雪は1月に入ると激しくなり、中旬以降北陸本線も全面運休に陥るなど混乱を極めました。

大阪と結ぶ長距離列車が復旧したのは2月になってからでした。その間、緊急事態で何かしようにも大阪から戻るすべがなく、ひたすら列車の開通を待つのみでした。

 

片山津に母を残したままでしたが、屋根雪おろしや除雪など、近所の方や親戚の皆さんに大変お世話になりました。昔のこととはいえ、皆様にあらためて感謝の気持ちを表したいと思います。

 

ネズミの「チュウタロウ一家」とネコの「タマ」

 

   

 

イエネズミ(家鼠)は、今ではほとんど見かけなくなりましたが、私が子供のころは、どこの家でもよく見かけたものです。我が家では、天井裏、押し入れを棲み家としながら、土壁の穴から内と外を自由に出入りしていました。ネズミの子育ては最も安全な天井裏でしたから、仮称「チュウタロウ一家」の走り回る騒音に常に悩まされたものです。我が家は隙間だらけの家でしたから、ネズミを追って、シマヘビや青大将が家に入ってきたこともありました。

 

ネズミ退治にネズミ取り器をかれらの通り道に仕掛けて一定の効果はあったのですが、何しろねずみ算式に増えていくものですから、一向にラチがあきません。それならと、母の決断でネコを飼うことになりました。当時ですから食いぶちが増える悩ましさもあったでしょうが、背に腹は代えられないくらいの「騒音」と「破壊活動」には我慢がならなかったのでしょう。

 

   

 

ネコの「タマ?」がネズミ対策にどれほどの効果があったのか、定かな記憶がありませんが、我々兄弟にとっては「動き回るおもちゃ」としての楽しみがあったようです。

冬になると、「タマ」はいつも堀コタツにもぐり込んできたものです。

あるとき、コタツの豆練炭が十分に赤くなっていないことがあり、そこにもぐっていた「タマ」は一酸化炭素中毒で死んでしまいました。子供がもぐっていれば、あわや事故にもなりかねず、タマが我々兄弟の命を救ってくれたとも言えます。身代わりとなった「タマ」の命が我々兄弟に今引き継がれているのかもしれません。

                       

最後に、「チュウタロウ一家」が「タマ」を手玉に取った話を一つ。

 

  

                    

雪が降り始める12月も半ばを過ぎると、農家なら納屋にしまっておいた臼を土間に持ち出して、正月用の餅をつくのが慣わしでした。鏡餅、飾餅、雑煮餅のほかに、次の年の一年間に子供たちがおやつに困らないよう、かき餅もあわせて作ったものです。我が家でも、母親の里に頼んで餅を用意していました。その中には、かき餅もありました。太くて細長いつきたてのかき餅の原形は数日で硬くなり、厚さ3㎜前後になるよう切り餅にして、それを稲わら数本で編んでいくのです。10枚程度で一かさ(一嵩)として、4~50嵩を準備していたようでした。次に、乾燥のため、天井に取り付けた紐に竹竿を通して、二嵩を一対にしたものを竿に掛けていくのです。

 

天井裏からその様子を見ていたかどうかはわかりませんが、我々が床に就いたころから、「チュウタロウ一家」が騒ぎ始めるのです。わずか数センチの幅の鴨居の上を走り回って、かき餅をかじろうとしているのです。そのうち、ついに一匹が竹竿の上に乗っているではありませんか。人間とネズミの何回かの攻防の末、かき餅にかなりの損害がでてしまいました。「タマ」にとっては、地上戦ならともかく、空中戦となるとなすすべもなく、「チュウタロウ一家」に完全に手玉に取られたかっこうでした。木枯らしが吹き、餅を食べる頃になると思い出す片山津での冬の一コマです。

 

 

2012.11.10

 藤井 忠邦

(片山津温泉出身・白山市在住)

 

第94回 「9歳の壁」

 

 

  児童言語教育の世界では以前から「9歳の壁」という言葉が昔からあり、いかに9歳

  までに子供たちに言語教育を導入していくかが大きな問題として語られているそう

  です。                             

                                                                                                                                                      

                                      清水 元茂

                                                                                                 

「9歳の壁」を英語言語教育について少し説明しますと、例えば英語を全く知らない小学校1年生の子供に「これちょっと言ってごらん」と英語で言わせようとしてもなかなか旨く言えません。これは当然のことですが「あれちょっとだけ違うな、もう一回言ってごらん」とうまく誘導してあげると、はにかみながらも繰り返して言おうとし、旨く言えてほめてあげると次々と言えるようになります。しかし、6年生の子供に同じことをさせようとしても「いやだ。なぜそんなこと言わなければならないのか」と拒否的になることが多くなってきます。これも人間の成長における“自我の確立”と言う点からはむしろ必要なことで決して良いとか悪いとか、子供の性格的なことを言っているのではなく、素直に受け入れられる9歳までに導入してあげることがいかに重要かと言うことです。

 

                                

 

 このことを示す事例は沢山あることと思いますが一つの例をあげてみますと、私の知り合いのドクターが2年間アメリカ留学した時、一緒に行った二人の子供さんは小学2年生(8歳)と6年生(12歳)でしたが、留学から日本へ帰ってきた時に2年生の子供さんの方が英語ははるかに上手になっていました。つまり9歳を境に上達の明暗が分かれていました。また元ソニ-会長の井深大さんは著書「幼稚園では遅すぎる」の中で周囲に外国人が沢山いる環境で育てられた3歳の子供さんが5ヶ国語話せるようになったと述べていらっしゃることも同じ内容のことを示していると思われます。

 

                              

 

ヒトのニューロンは生まれた時は前後左右にいっぱい連結されていますが、日本語だけしか使わないとそれに必要なニュ―ロンだけが残され、その他の使われないニューロンは寸断されてゆくので、ある程度の年齢以降にそのニューロンを使って語学習得しようとすると大変な困難が伴ってくるわけです。大人になってからの英会話修得が大変であることで実感している人も多いと思います。最近横浜にある中国人のための幼稚園に言語取得を意図してわが子を通わせる日本人の親が沢山いるようになったそうです。このことも「9歳の壁」ということが実感として知られつつあるということを物語っている現実の一端でしょう。しかし日本の言語教育では問題点は教えられる子供の側ではなく、単一民族国家で日本人しかいない日本の中で、誰がどのように9歳までの子供たちの“日常の生活のなかに”言語教育をいかに導入できるかと言う教える側に色々な大きなハードルがあるように思われます。かなり前から国際化が叫ばれ“グローバルスタンダード”と言う言葉が一般化してきている今の時代、中学校から始まるわが国の英語公教育は遅きに失しているのではないでしょうか。

 

                              

                 

 

 

2012年11月9日

ドクター・ズー医院長 清水 元茂

(小松市出身・福井市在住)

 

第93回 金沢の着物文化にふれて

学術、文化、芸術、またはスポーツの振興を図る活動<定款より>

 

春一番のその日、「柴山潟〝桜〟周回廊」プロジェクトの苗木植樹がスタートした。

 

それから早数ヶ月が経ち、あと2ヶ月あまりで今年が終えようとしている。今夏の猛暑は記憶に新しいが、この所の急変する気温の落差に体が追いつかない。体調万全にしなければ!と思いつつも、不規則ライフに甘んじている今日この頃。

 

さて、片山津温泉について、今日現在言えること。

「街湯」は谷口 吉生氏(金沢市)の設計による建築で美しく立派。また、I Love加賀ネットが、加賀市より指定管理を受けている「中谷宇吉郎 雪の科学館」の設計は磯崎 新氏。共に世界的に有名設計者による建築だけにこの二つの建物は片山津の誇り。

 

   

      加賀・片山津温泉「街湯」              中谷宇吉郎 雪の科学館

 

 

先日、実家の母が片山津温泉に泊りたいというので旅館へ予約に行った。ところが、平日にもかかわらずフロントの周りはお客さんで大賑わい。次々とバス送迎されている人達や、日帰りで一日満喫している人達で、そのほとんどが高齢の方々だった。

温泉街はひっそりとしていたが、ここの館内には賑やかな空気が充満していたのと高齢者の憩いの場所になっている場面を見たら、何だか嬉しくなった。

 

 *        *        *    

 

    憩いの場といえば、先日〝着物ファンの集い〟がホテル日航金沢で開催され、

    延べ300人ちかくの着物姿の女性が集い、華やかな雰囲気につつまれました。

 

トークショーには女優・真野響子さんが招かれ、着物に纏わるトークやで着物歴史の勉強もさせていただき、会場は盛り上がりました。
加賀友禅は金沢独自の伝統文化であり若手作家も伝統を継承し、毎回、新しい作品を作り、地元のみならず加賀友禅を広く愛してもらうよう努力していると聞きました。

 

新聞でも長町武家屋敷跡や東茶屋街の「まち中」を着物姿でそぞろ歩く写真や、和装の「金澤小町」1,200人が城下町に繰り出す記事を見て、金沢には〝着物文化〟が漂っていると思います。

 

真野響子さんが言われた中で、民族衣装を自分で着ることが出来ないのは着物だそうです。着物時代は自身で着れるのが当たり前でしたが、現代の着物離れした状況では、確かに自分で着ることができる人は少ないのだろうと思います。
 ~だから、着付けというビジネスになっているんですね。実際、私も着せて貰う派です~

                                                                     

                                                                                                                                                      ホテル日航金沢               金沢ゾンタクラブ鶴賀元・会長(写真左)と

                                                

 

着物に纏わることには・器・茶道・花・食・観光・歴史と様々な繋がりができ、また、あらゆるビジネスにも関連すると思えます。着物文化を広め、着物好き人口を増やすことも大事なのではないでしょうか…。

 

着物とまた向き合っていこう…と、しみじみ思う昨今です。

 

 

2012年11月8日

坂矢 昿央美

(小松市出身・金沢市在住)

 

第92回 マイ〝桜〟

つなげる――「柴山潟桜周回廊プロジェクト」―― つながる

 

 

桜の木を植樹した。

 

記念日とか特別な出来事ではない。 I Love 加賀ネットの「柴山潟 桜の回廊プロジェクト」に参加したのである。

 

 45年前に白山登山を始めてから、いろいろな人達と白山談義をしているうちに、白山が一番美しい眺めは、柴山潟から生(い)雲(くも)(那谷寺の宿坊、白山信仰の場)。

そして、白山を結んだ線上が「きれい」「絶景」「素晴らしい」と形容詞が沢山つく場所であると。

 

四季を通じて何度も柴山潟から、そして、生雲からも、白山の山並みを眺めるようになった。

そこで、柴山潟を巡る桜の回廊計画に出会い、桜植樹に参加したのである。

 

 

 小松市・那谷寺頂上「生雲」から加賀・柴山潟方面 

【写真提供/東 亜紗美さん=パソコン教室あじあ主宰<金沢市>】

 

 

 「桜」 花見 花より団子 入学式 ワシントンポトマック川 桜餅 サクランボ 燻製用チップ ラグビー日本代表のエンブレム などなど。

一年中和ましてくれる、春が来るたびに自然と相談しながら咲いて散っていく。

もう少し長く咲いていてほしいと思う。

 

植樹した、「マイ桜」が満開になるのを何度見ることが出来るか分からないが、人生初めての「マイ桜」を柴山潟の白山眺望ナンバーワンの地に植樹出来た事に感謝している。

 

 

  マイ〝桜〟

 

 

       柴山潟~白山の眺望

 

 

 

2012年11月07日

大井 信夫

(福井市) 

 

 

                      

                                              

 

 

 

 

 

 




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