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第187回 「赤穂浪士―俳人たちの忠臣蔵」その二

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              赤穂浪士―俳人たちの忠臣蔵」その二                   

                                                

「かく山を 引ツたてて咲しをに哉」  子葉

「月はなし 雨にて萩は しほれたり」 鬼貫

 

子葉(大高源吾)と鬼貫(上島鬼貫 藤原宗邇)の交歓句ありと。

復本一郎著「俳句忠臣蔵」(新潮選書)から引用させて頂きます。学術的な面や研究を考えると、筆者などには到底できることのない研究をされております。

 

上記の句は、義士俳人子葉が編集、公刊した俳書「二つの竹」 元禄十五年(1702年 仲夏(陰暦五月)に収録されている句です。赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは、元禄十五年十二月十四日で、討ち入りの七か月前には「書として体裁がととのっていた」ことになる。「二つの竹」のタイトルに深い意味があり、謡曲「放下僧」よりの引用で、父のかたき討ちをテーマとするもので、「二つの竹と名ずけたる冊子の名は、うちをさまりしといふ謡物の言葉を借りつらめ」とある。仇討の意図がそこにある。だからこそ「二つの竹」に俳人子葉は(大高源吾)魂のすべてを注ぎ込んだといっても過言ではない。「二つの竹は」子葉(大高源吾)の覚悟なのである。

 

さて、その一に少し戻ってこの「二つの竹」の交歓句に収録された場面を想像しながら、進めていきたいと思う。

 

大高源吾(子葉)が萱野三平(涓泉)を訪ね、何日間か涓泉居に滞在したかは解からないが、何れにせよ大石内蔵助からの命を伝えるのが目的であったはずである。そして勝尾寺や大滝の秋をどのような思いで味わったかは解からない。

 

萱野三平は、父萱野七郎左衛門重利より、他家へ出仕を促されており、忠孝の板ばさみに悩んでいた最中の頃である。仇討への思いと子葉(大高源吾)からもたらされた討ち入りの決意の忠は、涓泉(萱野三平)は如何ばかりであったかと。

 

子葉は水田西吟の居宅摂津桜塚の落月庵に向かった。西国街道にある萱野邸から落月庵(現在の豊中市岡町)までは緩やかな下りの道である。子葉は、蘭風(藤井光貞・水仙堂蘭風は萱野三平の叔父)と、落月庵に向かう。西吟は井原西鶴の弟子で「好色一代男」の版下を書いたことで知られている。子葉が西吟の求めに応じて料紙に書いた一句は「掃庭やいやがられても馬糞茸」と。

そこで、蘭風、休計、子葉の句(蘭風、休計の句も二つの竹に)「張箱に蓑虫鳴くや桜づか」蘭風 「おもかげの障子は動くしころかな」休計(休計は箕面の俳人で西吟とすこぶる親しかったらしい) そして「裏枯れや餅にとどまるさくら塚」子葉の句である。そして雨のたそがれ時に、桜塚を出立している。

 

愈々、伊丹の鬼貫を訪問し、一泊する。その時元禄十四年(1701年)鬼貫41歳。子葉30歳である。ここで書き出しの句がでてくる。当然ながら、二つの竹に収録されている。

 

子葉の挨拶句が 「かく山を 引ツたてて咲しをに哉」

紫苑が咲くことによって山がこのように美しく引き立って見える。という句ではあるが、し「おに」伊丹俳壇の重鎮、鬼貫その人を詠みこんでの句である。

 

「月はなし 雨にて萩は しほれたり」 鬼貫

月はなし、雨で見頃だった萩まで萎れてしまって、せっかくお越し頂いたのに申し訳がない、鬼貫は大した俳人ではありませんよ。との謙辞の句である。

 

筆者の注目するところは、鬼貫邸に一泊したところにある。子葉(大高源吾は赤穂藩士)鬼貫(藤原宗邇)も武士である。というよりも、子葉はお家断絶、武家社会から放り出された浪士である。また、鬼貫(藤原宗邇)は上嶋家の遠祖は武士で藤原秀郷(俵藤汰)に辿りつく武士である。鬼貫は仕官にこだわり、武士の一分を立てんとする終生の生き方を持っていた。清酒「三文字」の醸造元「油屋」の上嶋宗春の三男として摂津国河辺郡伊丹郷で生まれている。が自ら心底武士であると思っている。

 

こうした二人、俳人としての交歓句に包含される武士としての生き方や、思想、そして徳川幕府の武士社会を頂点とした、士農工商の封建制度の確立等と押し潰されそうになる人間としての悔しさが交叉する中で、俳人同士の会話で終わったのか、また、武士としての生き方を会話せずとも理解し合えたのかもしれないが、そう考えた方が自然であるのかもしれないが。子葉は、仇討はやりますとは云わないまでも、何らかの暗示をしたのかと勘繰りたくはなるが、言わずもがなの心こそ、武士の心情なのかもしれない。

 

武士社会を形成したのは朱子学(朱熹)である。五常(仁、義、礼、智、信)と五倫(夫婦、父子、朋友、長幼、君臣)儒教(四書五経)から朱子学。

 

身分制度と礼節を用いた朱子学が江戸幕府の骨格となしていた。倫理観や道徳観を考えると、武士社会にあって、子葉や涓泉そして赤穂浪士の俳人たちは、涓泉同様に悩み苦しみながらも、仇討を実行する「忠臣蔵」である。

 

 

短い二日間の出来事の中から、元禄十五年十二月十四日の討ち入りへ繋がっていく。

 

                    2016年12月13日

                NPO法人  I  Love加賀ネット

                   事務局長 東川 敏夫

 

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