第102回 義仲寺と芭蕉と篠原の合戦

 学術、文化、芸術、またはスポーツの振興を図る活動

 

 

 

義仲寺(大津市馬場町1丁目 近江・膳所)は旧東海道に沿ってある。古くは粟津ケ原といい、琵琶湖に面した景勝の地であり、木曽義仲公の墓所です。この義仲寺をこよなく愛し、芭蕉翁がしきりに来訪し宿舎とした。

 

元禄七年(1694年)10月12日、芭蕉翁は大坂の旅窓で逝去、「骸は木曽塚に送るべし」の遺言で、木曽義仲公と芭蕉翁の墓は並んで建てられている。  

 

 

 

 

 芭蕉翁

 

 

 

                                                                                         義仲寺三門                         芭蕉翁墓   

 

 

義仲寺の(執事 永井輝雄さんが案内・説明)ご説明していただきました。

 

 
木曽義仲といえば、信濃から倶利伽羅峠、篠原の合戦と平氏討伐の挙兵で、平氏の大軍を討ち破り京都に入のですが、その大勝負は篠原の合戦であったと思われます。その合戦で斎藤別当実盛は大敗した。打ち取った首を洗ったところ、黒髪が白髪になったと。それはまさに斎藤別当実盛その人だった。源平橋のそばにある「首洗池」である。I Love加賀ネット、当地の歴史であります。
 

 

「むざんやな甲の下のきりぎりす」 芭蕉(おくの細道)

 

 

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            首洗池 :石川県加賀市手塚町

 

 

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おくの細道では、奥州藤原三代にわたり栄枯盛衰の平泉。源義経の悲劇の舞台、平泉で
「夏草や兵ものどもが夢の跡」と詠む。
悲劇の主人公義経の霊を慰めることが、みちのくの旅の最大目的であったという。

 

 

木曽義仲は北陸路を京都に入る。翌元暦元年、鎌倉の源頼朝の命を受けた範頼、義経の軍勢と戦い、近江の粟津ケ原で討死する。ここで悲劇は終わらない。義仲を討った義経が、今度は頼朝によって追われる身となり、奥州平泉の藤原氏に逃亡することになるのだが、またしても北陸路を通る。そして有名な安宅の関、冨樫左右衛門泰家と弁慶の「勧進帳」の場面となるわけです。

 

 

木曽義仲の側室巴御前の塚(巴塚)は、義仲の墓に並んでいる。
おくの細道は芭蕉にとって、源 義経、木曽義仲の悲劇のヒーローの鎮魂の旅でもあった。
   

 

 芭蕉翁の墓
元禄七年(1694年)10月12日、芭蕉翁は大坂の旅窓で逝去五十一歳。「骸は木曽塚に送るべし」の遺言に従い、遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、其角、去来、正秀ら門人十人、遺骸を守り、淀川を上り京・伏見に至り十三日、義仲寺に入る。十四日葬儀、深夜ここに埋葬した。

 

                                                                                           

          

               木曽義仲公墓                    旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 

 

 

                            

 翁堂

 

 

「木曽殿と背中合わせの寒さかな」又玄
辞世の句 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
歴史が語ってくれる人間模様は、ともすれば忘れがちになります。それぞれの時代に刻まれた人の苦難や又繁栄を見ることができます。歴史を振り返ることによって、今どう生きていくべきかを見出す指針になるような気がします。進化の激しい時代といえども、人間の本質は変わらないと思っています。

【写真:筆者撮影】

 

 

 

2012年12月18日

NPO法人  I  Love加賀ネット

事務局長 東川 敏夫