寄 稿
中谷宇吉郎雪の科学館「友の会」幹事
(横浜市在住)
今、「I love 加賀ネット」上で、この文面を読まれているということはパソコンかスマホを使って読まれているということなので、是非、検索エンジンを使って「能舞台 梅」と検索してもらいたい。おそらく横浜能楽堂がヒットし、大きな松の木が目をひく能舞台の写真を見つけられるだろう。
横浜能楽堂本舞台
横浜能楽堂鏡板
■写真提供 横浜能楽堂■
加賀の藩祖、前田利家が能の金春流ということをご存知の加賀在住の方々や、能楽に造詣が深い方なら、能舞台の絵に、松と竹に加えて梅が描かれていることに面白さを感じてもらえるだろう。私同様、能楽をあまりよく知らない方のために解説を加えると、通常、能の舞台背景には、今も昔も、松と竹というのが定番なのだそうだ。この定番を覆し、横浜能楽堂の舞台には松と竹に加え梅が描かれている。これには横浜から遠く離れた加賀との偶然で奇妙な巡り合わせの歴史が隠されていたのである。
先に触れたように、加賀藩は本家だけでなく支藩に至るまで能楽文化が盛んであった。加賀大聖寺藩の最後の藩主、前田利鬯(としか)の旧邸は、「中谷宇吉郎 ゆかりの地めぐり」でも紹介された通り、錦城小学校近くの江沼神社の敷地内に保管されている。畳敷きの広間には、通常の建築では不自然な位置に、座敷を正方形に囲むように柱が建てられている。これは、主人の能楽好きが昂じて作られたもので、能舞台の「目付け柱」の役割を果たすものであった。
江沼神社(加賀市大聖寺) ■写真提供/KAGA旅まち・ネット■
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*中谷宇吉郎 ゆかりの地めぐり・・・江沼神社敷地内「畳敷きの広間」での朗読会
(I Love加賀ネット写す)
支藩でも、これだけの熱の入れようなので、本家の前田家は更にスケールが大きい。幕末を生き、明治を生きた加賀藩主の前田斉泰(なりやす)もまた能楽に精通した人物として知られる。維新後、東京の根岸で余生を過ごし、その根岸の自宅に、とうとう本格的な能舞台をまるごと造ってしまったのである。流石、加賀百万石のお殿様ともなれば、痛快極まりない。更に、茶目っ気もあり、定番の松と竹に加え、前田家の梅鉢紋(うめばちもん)の家紋にちなんで、舞台背景に梅を描かせたのである。
ちなみに、前田家の梅鉢紋(うめばちもん)と呼ばれる家紋は、菅原道真の末裔を意味していると言われている。更に横道に逸れるが、私の祖先を辿ると、織田信長の子守役で知られる平手政秀と縁があり、平手家もまた、前田家と同様、菅原道真の末裔とされ、勝手ながら加賀に個人的な縁を感じている次第である。
金沢城
さて、ここからが更にあまり知られていない内容である。前田家の梅の能舞台は、根岸からそのまますんなりと横浜能楽堂に辿り着いた訳ではない。前田斉泰(なりやす)の死後、1965年(昭和40年)まで別邸に移築され広く利用されていたようだが、その後、まったくの行方知れずとなってしまった。利用されることがなくなり解体されたとはいえ、能舞台まるごと保管するともなれば、スペースだけでなく費用もそれなりに掛かるだろう。当時の関係者も私のような風流に疎い者だったとしたら、どう処理すれば良いか頭を悩ます代物にあったに違いない。
行方知らずになって30年近くが経ったある日、神奈川県の海老名市の水道局の倉庫の奥で、職員が見慣れぬ物を見つけ出した。それこそが、梅の能舞台であった。おりしも、横浜市は1996年(平成8年)の能楽堂の完成に向けて動き始めていた頃で、これ幸いと修繕を加え横浜能楽堂に迎え入れたのである。加賀文化が、紆余曲折を経て、遠い横浜の地に受け継がれた瞬間であった。
ここで触れた話は、横浜能楽堂を訪れた際に学芸員とおぼしき職員の方からお聞きしたものである。インターネットが便利に使え、居ながらにしてあらゆる情報を知ることができるという錯覚に陥りやすい今日この頃であるが、やはり現地に実際に身を置き、人と触れ合うことで新たな事を知り、感じ、興味が湧くということが当然ながらたくさんあることに改めて気付かされる。実際に横浜能楽堂へ梅観賞に訪れるのもよし、歴史に思いを馳せながら加賀の地へ訪れるのもよし、これまた一興ではありませんか。
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◆参考リンク先
◉「中谷宇吉郎 ゆかりの地めぐり」の報告(I Love 加賀ネット内)
https://kaganet.com/houkoku/houkoku.php?nowpage=10
◉横浜能楽堂
◉江沼神社…宝永元年(1704年)4月に大聖寺藩三代藩主前田利直邸内に前田家遠祖の菅原道真公の霊を祀る天満天神社を建立したのがはじめとされ、藩祖前田利治公をお祀りした松嶋神社が明治10年に江沼神社と改称、同12年天満天神社を合祀、同16年に県社に昇格しました。
2015年8月5日
外嶋 友哉
中谷宇吉郎雪の科学館「友の会」幹事
(横浜市在住)