第191回 「温故知新」歴史に学ぶ地方創生
当コラムもNO190から約半年、季節は二十四節気芒種(ぼうしゅ)。
七十二候蟷螂生(とうろううまれる)稲などの実に針状の「芒」(のぎ)がある穀物の種をまく時期。蟷螂はカマキリ。今日から九州、四国、中国、近畿に梅雨入り宣言。例年より三日遅いとのこと。
梅雨の季節になると、60年以上前の「湯の祭り」の光景が記憶の底からが甦ってくる。当コラムのNO175に「蕪村と湯の祭り」で書いていますが、湯の祭りと云えば雨の記憶である。それも尤もなことで、梅雨のど真ん中の時期だからである。
芭蕉は奥の細道で
「むざんやな 甲の下の きりぎりす」芭蕉
「幾秋か甲にきえぬ鬢の霜」曾良
「くさずりのうら珍しや秋の風」北枝
寿永二年6月1日(1183年6月22日)治承・寿永の乱(篠原の合戦)である。
斎藤実盛は源為義、義朝に仕え、保元の乱で勲功をたてたが、平治の乱に破れ、義朝滅亡後は平宗盛に仕えた。寿永二年平維盛が十万の兵を率いて、北陸に木曽義仲を攻めた時、老武者と侮られない為に、白髪を染めて出陣、その際宗盛から錦の直垂を賜った。錦の直垂は大将が着用する金銀織り交ぜた立派なものだった。そして篠原の合戦である。
幼い頃実盛に救われて成長した木曽義仲は、実盛が、手塚太郎光盛討たれ、樋口次郎が首実験をして、今まで蟀蟋黒髪が白髪になり、実盛であることが明らかになり、木曽義仲は昔の恩義を思いおこし白髪頭を見て号泣したと云う。(平家物語「篠原」「実盛」)
こうした歴史的背景を芭蕉は「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と詠んだのだろう
- 実盛の甲は多田神社へ奉納された。「詩経」の「十月蟋蟀、入我牀下」コオロギ床下にありを意識の中に持っていたと思われる。
(麻生磯次著「芭蕉物語」(中)より引用)
木曽義仲(源義仲)は倶梨伽羅峠での勢いをそのままに篠原の合戦に挑んだ。そして前日までは激しい雨が降っていた。梅雨の真只中なのである。
探題実盛 蕪村
「名のれ 名のれ 雨しのはらの ほととぎす」 落日庵 名所小鏡
(新潮日本古典集成 校注清水孝之 与謝蕪村集より NO175でも引用)
「さぐりだい」詩歌の席上幾つか出された題の中から探りあてた題を詠むこと
「実盛」は斉藤別当実盛。『平家物語』七実盛最後参照。
実盛が手塚の太郎光盛に討たれたこの篠原に、今雨が篠突くように降っている。
時鳥よ
実盛の鎮魂の為に一声鳴いてみてくれ。謡曲の文句通り、地名を詠みこんだ掛け詞は技巧的だが明晰にこなした秀句。
♢名のれ名のれ「名のれ名のれとせがむども終に名のらず、こえは、坂東の声にて候ひし」
(謡曲「実盛」)時鳥の鳴くことを「名のる」というのは古歌に多い。♢しのはら 加賀の国と「篠突く雨」と掛ける。
蕪村 探題
「名乗れ 名乗れ 雨篠原の時鳥」
平家物語、謡曲「実盛」、芭蕉、蕪村が後世知るところとなり、また「篠原の合戦」の歴史はこれからも継承されていくはずである。
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NPO法人I Love加賀ネットは、毎年「春のウォーキング」には、「篠原合戦」をコースに歴史ウォーキングとして定着させています。
本年6月3日(土)、「篠原の合戦」を回顧するシンポジュームが開催されました。
“古戦場„跡の首洗池・実盛塚に、実盛・義仲・光盛の子孫が参加しての画期的な企画です。(事業報告に掲載参照)
歴史や文化、伝統、科学など地元の先人は遺産として残してくれました。更に柴山潟と白山という大自然が人の歴を見守ってきました。こうした資源・資産に恵まれた場所は、中々見つかるものではないと思っている。それだけ価値観が高い。観光のみならず、文化や自然や歴史に育まれる人々の安らぎを、求めていかなければならないと思っている。
ともすれば、これまでのように「おんぶにだっこ」ではいけないのではないでしょうか。「温故知新」歴史を知れば知るほどに、様々な創造力が芽生えてくるものである。構想力や創造力は実行した時にこそ意味がある。
2017(29)06.14
NPO法人 I Love加賀ネット
事務局長 東川 敏夫