第21回 加賀・橋立と北前船

 「柴山潟〝桜〟周回廊計画」

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   昨年7月13日、中谷宇吉郎直筆の掛け軸「雪は天から送られた手紙である」

   橋立・北前船船主 西出孫左衛門子孫、柳原昌子さん(60)が加賀市に寄贈

   (北國新聞記事記事)。当HP「事業報告コーナー」でも7月15日に紹介しました。 

 

北國新聞 2011(平成23年)7月14日(木曜日) 

 

 

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「北前船」で活躍した船主でまず挙げなければならない人物は銭屋五兵衛

 

江戸時代後期の加賀の商人、海運業者で金沢・加賀藩の御用商人を務めた。宮腰(金沢)は隆盛の北前船航路の重要な中継港であり、米の売買を中心に商いを広げ、最盛期には千石船20艘以上、全所有船舶200艘を所有し、全国に34店舗の支店を構える豪商であった。

 

河北潟干拓・開発工事を請け負うが状況が一変し投獄され獄死。その上、財産没収・家名断絶とされた。日本開国のわずか2年前でだった。

 

 

高田屋嘉兵衛 

 

淡路島の農民の子として生まれ18歳で兵庫へ出て廻船業者を志し、その後、兵庫の北風家(北風荘右衛門貞幹)の後援で本格的に廻船業に乗り出すことになる。

1801年国後島・択捉島開拓の功により名字帯刀を許される。1806年函館の大火で被災者の救済活動と復興事業を率先して行った。

 

生誕地の兵庫県洲本市五色町に高田屋嘉兵衛翁記念館があり、函館市に函館高田屋嘉兵衛資料館がある。小説 司馬遼太郎「菜の花の沖」2000年にNHKテレビドラマ「菜の花の沖」竹中直人でドラマ化された。

高田屋嘉兵衛を後援した北風家は伝説によれば古代から続く歴史を持つ兵庫県の旧家であった。伊丹の清酒を船で江戸まで回送し、「下り酒」ブームの火付け役が北風彦太郎。北風荘右衛門貞幹は司馬遼太郎の「菜の花の沖』で取り上げられ、無名時代の高田屋嘉兵衛を後援した。また、俳人与謝蕪村の主要なパトロンであったと云う。

 

 

 加賀・橋立北前船 旧酒谷家

 

 

 

写真提供:(社)加賀市観光交流機構  「KAGA旅・まちネット」 

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北前船と上方

 

上方(大阪)は天下の台所として発展し、「食道楽」の所以となるのは「北前船」によるところが大きな要因であったと思われる。北前船は物流・人流にはいくつかあったが、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で浪速に至るルート。古代から瀬戸内海を経由するものもあった。江戸時代から明治時代に大阪を基地に蝦夷地へ向けて1年1航海の西廻り航路(日本海)の事。

 

東廻り航路は太平洋側を北へ向かう黒潮の流れに逆らってはいかなければならない為、航海が大変だったことも西廻り航路が発展したと言える。明治時代に西洋式帆船が登場すると年に三航海、四航海が可能となり、北前船はその役目を終え、歴史の舞台から姿を消すことになる。

 

「北前船」は6月頃に買い付けを終え7月~8月頃に出帆。蝦夷に行く下り荷は米、塩、砂糖、紙、木綿等で、大阪に行く上り荷は昆布、鰊などの海産物や〆粕などだった。「千石船一航海の利益は千両」下り荷三百両、上り荷七百両と云われた。北前船といえば「ニシン御殿」そして大阪には老舗の昆布屋さん多くある。

 

大阪西淀川に「佃」があり、東京中央区「佃」は摂津国佃村(現在の西淀川区佃)の漁夫33人が徳川家康の関東下降のおり江戸に移り住み佃島と命名した。佃島周辺で取れる海産物を使って作った煮物が「佃煮」だ。大阪の佃と東京の佃島は北前船で切っても切れない関係にある。

「伊丹の酒」を下りものと云ったが、昆布の良質は天下の台所大阪で貴重品化され、それ以外の物を江戸で佃煮になったと言われている。

 

加賀市・橋立には北前船資料館があり、ぜひ足を運んでいただきたい処である。

 

2012年1月20日

NPO法人  I  Love加賀ネット

事務局長 東川 敏夫