第97回 故郷で過ごした少年期の想い出

つなげる―「柴山潟桜周回廊プロジェクト」―つながる

 

 

                         

                                        西村忠治(昭和12年生れ)  

 

加賀市史によると中世から近世は潟山津と地名にあります、名のとおり潟あり山あり海ありの自然の恵みをうけている郷里の景色は心の故郷です、私は篠原町の農家で生れ育ちました、篠原神社の裏は小高い丘でそこは「はさば」と云って刈り取った稲束を天日干しにするため棚にかける全、集落が利用する「はさば」でした、その台地から眺める霊峰白山・鏡のように澄んだ柴山潟・新保の山・温泉街と背後の山を望む美しい眺めは私の心の財産です。故郷で過ごした少年期の想い出を綴ってみます

  

篠原神社

【写真提供 :NPO法人 おったから塾 (加賀市篠原町)=撮影2012.11.11=】

 

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宮地~小塩辻の畑から「白山」を仰ぐ

 

<遊び>

農家の子供の遊びといっても、海山川の自然の恵みの収穫でした。春はタケノコ採りよもぎ採り、夏のお昼休み大人たちは昼寝、炎天下子供たちは篠原海岸の海へ岸から30m位沖に出ると2m位の深さに岩場があり「岩かき」「もづく」を採るのです、家に持ち帰ると母親が近所に配っていましたその人達から「かていもんじゃ」とお礼を云われると嬉しかった。秋になると海岸の松林にキノコを採りにマツミミ・シュロがとれた特に夜雨が降った翌朝早くは竹で編んだ籠一杯採れた、野生の山芋も採れたが芋が折れないように地中深く堀るのが大変でした。

 

宮地町から山田町の間は原野であったがマッタケが採れると聞いて友達と採りにいったが雑木林で発見出来ずしかも漆にかぶれて顔と両腕が水脹れで痒くてたまらんお岩のようになり、母親が粟津の温泉が効くと云われ連れてってくれたが治るどころか腫上った患部が化膿して往生しました。         

川に行ってドジョウ・小さな川エビ・たんぼでタニシがよく採れた。     

冬は一面雪化粧の中に一筋の川があり両岸に生える真っ青なセリ。     

これら採れたものは直ぐ食卓に並ぶ、ある時はキノコごはんだったりかきの酢の物だったりタケノコごはん煮物だったり美味しかったし採ってきたことを母親から褒めてくれるのがとても嬉しかった。

        

<お手伝い>

私の実家は農家でそこそこの田畑があり父親は6歳の時に他界し母親は嫁いだ姉2人を除く6人を育てる環境で一家総出の農作業の毎日でした、お金は無かったようですが食べる量には不足は無かった、勿論私の仕事も役割りがあり、同級生は部活動で活躍して楽しそうでしたが私は授業が終わると直ぐ家に帰りお手伝いをしました、これは普通の農家の子供は皆そうでした働きました。

 

当時の農作業は今日のように耕運機やコンバインなどなし、農耕牛が貴重な動力源でした、私は牛の餌係り、真っ青なススキが愛牛の大好物で草刈が僕の仕事、青草の無い秋冬は稲草を10cm位に刻んで米ぬかと水とを桶に入れて掻き混ぜるこれが牛のごはん、その藁を刻む器具の刃で自分の左手をケガし今も親指と人指し指に傷跡が3ケ所残っていて時々そのキズを見て家族のような愛牛を思い出します。

 

 

【図説】かたやまづの歴史より 

 

当時の最高のおもてなしはお餅をついてご馳走する、東京京都から親戚の方が里帰りすると、つきたてのアンコロ餅おろし餅キナコ餅を振る舞い近所にいる親戚も集まり都会のみやげ話で宴は盛り上がる、客にお土産をあげるのも餅です、夏の餅を酸化防止に先人の智恵で「くま笹」で包む、このくま笹を採りに篠原の海岸に笹藪があり、何十枚が採っているうちに蜂の巣にきずいた時は遅く蜂の大群にさされ痛い目にあい一晩中眠れなかった、されどお土産の笹餅を沢山持って帰京される客を見送ることができた。

 

 

 

宮地町と小塩辻の間に大野と云う篠原の畑があり秋小麦を蒔き春採り入れそのあと芋を植え秋に収穫です、この畑はよく「マムシ」がでるところで僕も芋掘りの手伝い中に3m先位に発見、大人達は逃げ出したがさほど怖さを知らない少年はしばし「まむし」とにらめっこ、今から考えると怖い経験でした、農家の軒下にまむしの皮を剥がして干してありました、我が家でも干物になったマムシを粉にしてキナ紛とかトロロ昆布に混ぜてふりかけにして食べた、滋養強壮・薬にもなると貴重な食材だったようです。 

 

篠原の母親達は働き者で、自作の農野菜を荷車に乗せて大聖寺の消費地に売りにいきました今の地産地消ですか、篠原から大聖寺まで約4キロ途中の高尾町に急勾配の坂があり、荷車を引き上げるのが大変そこで母親の引く荷車の後押しをするのが僕の役目、眠い早朝5時ごろ起こされ帰りの為自転車をひいて高尾の坂を後押しします、坂の上までくれば僕の手伝いは終わりですが、近所の母親達が辛そうな息をしながら坂道を登っているので僕が後押しをします、又後方に大息をしてる荷車があり坂の上まで後押し、これでは朝食をとって通学の朝礼に間にあわない、されど後日その母親達から「あんがと」と感謝されたり、何回も繰り返すと僕のことを「かていもんや・えらい子や」と評判になって嬉しかった。

 

秋みぞれか氷雨か降る時の手伝いはきつかった、秋の作物はネギとニンジン大根ごぼうが主で白菜ですが、根菜は綺麗に洗わなくては売り物にならない、掘って採ったニンジン大根ごぼうをせせらぎの川で洗う、寒さの中でなお水が冷たい手は痛いほど冷えてかじかみ体は氷のように冷たく硬直して子供心に泣きたいくらいだが母親が一生懸命流れる冷たい水でごしごし洗っている姿をみるとグチをこぼしたり泣き言は言えず、必至に我慢して早く家に帰れるように仕事を進め、家の暖炉を待った。

 

今の調理は電化又はガスで栓をひねればよし、当時は風呂もかまども「いろり」の暖炉も「蒔き」と「コッサ」でした、冬支度は燃料の備畜が最も重要、篠原から新村伊切町にかけて防砂林で松林でした、その枯れ枝を取って蒔きに蓄える、松の葉の落ち葉を「コッサ」と云った、コッサは囲炉裏で燃やし暖房兼湯沸し燃料として貴重であったので、紅葉の時期は子供たちは一斉に「コッサ掻き」に出、荷車一杯に積んで持ち帰り、何日も繰り返して蓄え激寒に備えた。

 

                                                                     

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<現在の棲家は故郷に類似>

私はS31年上京して大手鉄道会社が経営する百貨店に入社以来40数年間流通業に携わりS50年東京近郊我孫子市に住んでおります、我孫子市は手賀沼の湖面が輝き利根川が穀倉を豊かにし沼の周りは緑の山に囲まれた首都圏の住宅地です、我が家の台地から望む手賀沼の景色は故郷柴山潟周辺の景色と似ています、片山津も我孫子も優しい自然環境がとても良い、当我孫子は「北の鎌倉」と云われた。上野から40分の等距離で、文化人実業家達の別荘地として知れるようになり発展した、明治後期から大正時代は嘉納治五郎(柔道・教育家)志賀直哉、武者小路実篤などの文人、杉村楚人冠、柳宗悦など著名な評論家など多くの方々が別荘もしくは住いとしていた。

 

嘉納治五郎の甥で柳宗悦(美術評論家)が我孫子の嘉納の別荘の前に三樹荘と云う家を構えて白樺派の文人達との交流の場になっていました、T10年柳は京都に引っ越したあと当時最高裁長官の田中耕太郎がすみ、その後S4年郷土の偉人深田久弥が妻北畠八穂(詩人作家)と結婚して2人の生活が始まったのがこの我孫子の三樹荘なんです。余談ですが私は現在我孫子市のボランテイアガイドをしてます。風光明媚な平和で美しく、著名人が癒しの街として愛して過ごしたその歴史を訪れた人に知って貰いたいと活動しています。、.久弥の我孫子時代は作家としてまだ無名ではあったが白樺派の志賀直哉や武者小路や滝井孝作など同人達とは親交があったようです。その影響かどうか後の「百名山」を50回の発表で大成され作家として高い評価をうけた。

 

                                           

       深田久弥「山の文化館」大イチョウ            深田 久弥      

【写真提供:深田久弥 山の文化館(加賀市大聖寺)】

 

 

<むすび>

古里をあとにして55年余りですが少年の頃の思い出は強いですね、故郷を離れた人は特に感じます、それだけ育った町を誇りに思い自慢にも思い愛した心に残る故郷は尊い!!

 

故郷ありがとう!!

 

そして故郷在住の学友達と僕を育ててくれた篠原の方々に感謝して筆をおきます。

 

 

  

   

      篠原古戦場・首洗池            国の天然記念物・金明竹(篠原町)

 

  

 

2012年11月19日

西村 忠治

(加賀市篠原町出身・千葉県我孫子市在住)